京都の雪から思うこと(リアルな装飾)

ブログ更新がすっかり御無沙汰になってしまった。
今回は、少し前に京都で見た雪から思い付いたことをつらつらと。

18日の京都は、朝から青空が見え太陽が輝いているにも関わらず、 粉雪が舞い散っていた。
東京では雪が水っぽく重い為、粉雪でも風に舞い上がるという事が無い。
「雪が舞う」という表現そのものの景色を、東京に住む私は初めて体験した。また、初めて見た「お天気雪」は、近くの山付近で降っていたものが街中の方に流れてきたのかもしれない。
試しに積もっていた雪を吹いたら、吹けば飛ぶ程の軽さだった。

若冲<雪中雄鶏図>の雪は「ホイップクリームの様で奇異」という解説を読んだ事があるが、朝日で少し解けはじめた雪は、「若冲の雪」そのもの。
枝葉に積もった雪は、硬く氷の様に固まることもなく固まりになって下に落ちる事もない。(東京では、水分が多いので重いし、朝には雪が氷結している)
体積はあっても、枝が負担になる様な重量感が感じられず日光で雪が解けはじめても、雪が少ない外側から解けていくだけで、 雪の多い部分は葉の上にそのまま残る。
水気が多いと重みで雪の多い部分から落ちるのだが、京都では雪の少ない周りからにじむ様に解けていく様だ。
それが葉の上で起きると、雪が少ない葉の隙間が先に解け落ちるので、結果的にクリームが垂れた様な「若冲の雪」が出来上がる。 正確には、「ホイップクリーム」ではなく、細かい粒子が感じられる「メレンゲ」の質感。

数年前に見た吉野の桜もそうだが、
「記号的な装飾」だと思っていた日本の自然表現が、 実は写実的要素を含む事を改めて感じる。

吉野で見た桜は、染井吉野とは違い花びらが小さく軽い。
その上、杉林に自生しているので、杉の上(日光の当る所)まで高く伸びて花を咲かせている。杉林の中では花びらだけが散り乱れ、桜の花は見えない。ずっとずっと上を見上げると空の近くに花があるのだ。

吉野の桜を見る前、歌舞伎の舞台で雪の様にチラチラと舞い続ける花びらは、舞台を装飾する為の装飾で「決まりごと」という認識でしかなかった。そもそも、「雪の様に舞う花びら」というのは、現実のものというより、文学的な言葉の比喩の具現化だと思い込んでいた。染井吉野は、一瞬のつむじ風に花びらが舞うことはあっても、無風で音も無く雪が降る様には散らないから…。
けれども、吉野で桜を見てからというもの、舞台上の桜は「写実的な装飾」としてリアルにその時の感動を呼び起こしてくれる。舞台上方にある花飾り(正式名称は不明)も、林の上に咲く桜に見えるのだ。

そして今また、桜の様に舞う雪にであった。
「桜ちる木の下風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける」(拾遺集 紀貫之)
12月半ば、五島美術館の「やまとうた一千年」展でこの歌を読んだ時、私は吉野にいたあの時の感覚にフラッシュバックした。

自然が装飾的に用いられている古典的なものは、一見、その意味を実感することが難しい場合がある。その場合、その装飾の記号性は、単なる約束事として認識することしかできない。
けれども、その背後にある意味・象徴・本質など何かが伝わると、「つまらない(わからない)古典的装飾」から「リアルで直接的な情動表現」に劇的に変化する。

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