光とイメージの痕跡(「杉本博司-時間の終わり」展)

新年明けて、「杉本博司-時間の終わり」展最終日の夜、ようやく見に行くことができた。
(最終日なので、会場には御本人の姿も)

                <観念の形>

「曲線のエロス(2005/09/02のブログ)」にも書いた通り、ねじれていく様な割り切れない曲線が好きなので、この作品群は本当に美しかった。
ただし、眼鏡を持参するのを忘れてしまったせいで、いつもよりは多少シャープさに欠けた像として写った。(視力0.8ずつあるので見えない程ではない)
立ち並ぶカードの様な情景を、眼鏡というフレームに邪魔されず、却って良かったかもしれない位なのだが、途中で「なぜ、ボケているのが嫌ではないのか」ということに囚われ始めた。
そして突然、「鮮明ではないこと」は、写真を限界にまで拡大するこの作品の意図そのものに通じるものがあると気付いた。

白から黒への階調が激しい写真を大きく拡大すれば、いくら焦点を合わせても写真は絶対シャープには再現されない。写真の白は光によって作られるため、熱の効果と同じ様にその外側の黒を侵食するのだ。
理論的には当たり前の事だが、普段は結構忘れている。そして、その現象はネガやポジでは極小レベルだが、確実に起きている。
紙焼時におけるわかり易い白の侵食は、単に技術の未熟さを露呈するものでしかないが、ここで現れている白の侵食は「美しいにじみ」であり、それはネガの段階で起きた写真特有の表現と言えるかもしれない。この美しい階調は、決してデジタルカメラで再現できない。写真はまさしく光による造形である。

                <海景>

暗い会場で見る<海景>は、明るい所で見る時の様に永遠に続いていく波間を追う事ができない。今回の展示は能舞台やサウンドもあり、<海景>を使った展示室全体のインスタレーションだと思った方が良いだろう。これは、眼鏡を忘れた私にとってはラッキーな事だった。
能舞台は、能「鷹姫」のイメージを定着させるための装置。そこから立ち顕われてくるのは 「鷹姫」の残像。永遠を求める人間の業と、過去・現在・未来の混在した時間の痕跡。 周りにある作品もまた、永遠の象徴である海の痕跡なのだから。

ここでの演能は、<海景>を背景にする事に意味があったのではない(と思う)。会場内で見た「鷹姫」の映像は、抽象化された様式の能であっても生々しい違和感を感じさせた。
演能は、能「鷹姫」を観る事によって得るイメージを、あの舞台に呼び込むための儀式だったかもしれない。だとすると、「鷹姫」を観た後に、再度あの場所でその残像を思い起こす必要があるのだ。

私はここでの「鷹姫」は見ていないが、幸運なことに数年前見た経験があった。その状態で会場内に入ると、<海景>と「鷹姫」の混在したそのイメージが音と一緒にまとわり付いてくる感じがした。
こうなってしまうと、<海景>は一点一点の作品として見るものとしてではなく、体の周りと包む印象として「鷹姫」の残像と一体化してしまう。
鑑賞が個人の主観的行為だというのなら、もっとも主観的な行為を行ったのだろう。それは、「印象批評」ならぬ「印象鑑賞」かもしれない。(笑)

しかし一方で、能を見たことが無い人や、能「鷹姫」を知らない人にとってあの舞台の意味はどれ程あったのだろうか。
一点一点の作品を熱心に見ようとした人にとっては、作品を隔てるだけのものであったかもしれない。
現代アートの作品に説明や事前知識は必要か否か…
私の場合は能や「鷹姫」の経験があったからこそ鑑賞が可能だった。「個人が自由に感じる所があればそれで良い」という安易な結論には、どうしてもにはうなずくことができない。

また、もう一つの苦言。
池田氏の高音サウンドが、最初の展示室ですでに聞こえていて、これが本当に気持ち悪かった。<海景>展示室に入ってしまえば 良いのだが、 漏れた音はまるでタバコの副流煙の様に周りに被害をもたらす。逆側は出入口が小さく音漏れも少なかったので、工夫の余地はあったはず。残念。

                <劇場>

会場内の杉本氏のコメントでは、「自分の写真は静かだと言われる」と書かれていた。
確かに静かである。ただし、完全な無音ではない。囁き声の様なものが聞こえている静かさなのだ。もしくは「シーン」という擬音を誰かが静かに発している感じ。ある意味、池田氏のサウンドのイメージに近いかもしれない。
人が集まる劇場に誰もいないという不自然さは、「淋しさ」「冷たさ」を感じさせる方が自然なはずなのだが、この作品にはそれが無い。有機的な暖かみ、というべきものが備わっている。なぜなのだろう。
私はしばらく納得する事ができないでいた。

そして展覧会の後、展望台からの夜景を見た。単にセット券を無駄にしたくなかっただけなのだが、そこで思いがけない発見をしてしまった。
冬の夜景は遠方まで良く見える。無数のイルミネーションは星と同じ様に瞬いていた。
だが、裸眼では見え辛く、普段は夜景には使用しないモノキュラーを覗いてみると…
レンズの中のイルミネーションは瞬かないのだ。なぜ????
位置がズレていないのか注意深く光点を数えたり、裸眼で感じられる瞬きが乱視による錯覚でないのか何度も確認した。約15分程確認したり考えたりしていたところ、ふっと当たり前の事に気がついた。

モノキュラーは6倍という低倍率だが、レンズを使用している限り裸眼よりもずっと暗く見えているはずだ。
普段はこの程度の明るさの違いは気全くにならないのだが、夜景の瞬きはわずかな光の揺らぎなので、レンズを通すと目まで届かないのではないだろうか。つまり、暗くなった分、瞬いている光が見えなくなっているのだ。

この事に気付いた時、<劇場>の持つ「囁く静けさ」の秘密を解く鍵を見つけた様な気がした。
カメラは、レンズを通すことでリアルな空間よりも光量が減る。しかし、ネガの様な感光体はレンズに対応して作られている為、人間の網膜よりは光の感度がずっと良い。
レンズの暗さと感度の良い感光体は、カメラの中で「光が像を結ぶ」という意味でバランスが取れている。しかし、そのバランスはリアルな世界とは決して一致していないのだ。夜景の瞬きは写真には写らないし、陽炎も歪みは写っても空気の揺らぎは捉えられない。
その事は一方で、写真が芸術たり得る理由でもあるのだが、写真が像に残すことができるのは、光が揺らいだ結果「残像」だけなのだ。

<劇場>で感じた囁きは、光が揺らいでいた痕跡だ。
長時間露光は、本来レンズによって切り捨てられていた「揺らめいている光」を像にしているとは言えないだろうか。とは言え、写真として再現されるにはカメラの中で光が像を結ぶバランスは必須。単純な「長時間露光」という訳でもなく、技術的には色々とあるのだろう。
<劇場>はコンセプトも面白いのだが、それ以上に「光」そのものを意識させてくれる事が、自分にとっては衝撃的だった。

                <結>

<ジオラマ><ポートレート><建築><影の色>も、コンセプトがよく伝わるし面白かった。ただ、自分が本当に心を動かされる様な感動はなかったので、書かないことにした。
「脱評価」が可能だとすれば、自分にとって「驚き」「疑問」「発見」「感動」があったことだけを主観的に書くという事だ。(たぶん…)