袴能の今日的意味とその可能性 (平成14年)

2015年5月1日 宝生流 近藤乾之師がご逝去されました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

現在更新を停止しているこのブログは、通信大学で学んでいるあいだ芸術について私的に綴っているものでした。
平成14年、近藤乾之助師の『山姥』を拝見し、それまで自分が観ていた広義の上演芸術の概念を超えるものとして、その余りの素晴らしさに大きなショックを受け課題のレポートにまとめました。
当時は謡曲の稽古を始めたばかりで(他流)、能自体の鑑賞もわずか数本でしかなかったと記憶しております。
しかしながら、添削教員やその後に出た評論も、この演能自体の評価は高くとも袴能は特殊なものというスタンスが崩れる事はありませんでした。
謡曲を習い始めて間もない事もあり、素人の勝手な思い込みでしかないのか…と、レポートにまとめたものの「個人的に袴能が好き」と言うにとどめる様になりました。
この度、近藤乾之師を偲び改めて読み返してみた所、単に「個人的に好き」という事以上のものがこの袴能『山姥』にはあったという事、改めて実感致しました。
観能経験の浅い観者でも観能経験の豊富な観者でも、同等に感じる事ができる能の本質がそこにはあります。
これをそのまま私個人の記憶にとどめておくのは余りにも残念に思われ、公開させて頂く事に致しました。
それ以降の「近藤乾之助師試演会」も拝見させて頂きましたが、パンフレットでこの時ほど作品(山姥そのものの)解釈について言及されていた事はありません。
あくまでも私的な想像ではありますが、『山姥』という作品の本質を能として表現する為の袴能であったと、今でも思っております。

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「袴能の今日的意味とその可能性」

    ―近藤乾之助『山姥』―(平成14年度課題レポート)



〈鑑賞データ〉
【第26回 近藤乾之助試演会】
◎公演日:平成14年3月7日(木)
◎会場:宝生能楽堂(東京・水道橋)

『邯鄲』(舞囃子)佐野萌
『願書』(一調) 近藤乾之助
『蝸牛』(狂言) 野村萬 
         野村与十郎 野村万之丞
『山姥』雪月花之舞(袴能)
         シテ 近藤乾之助
         シテツレ 金井雄資
         ワキ 福王茂十郎
         ワキツレ 福王知登
         ワキツレ 福王和幸
         アイ 野村祐丞 


能ではない能の上演形式 註1 (以下、 註釈はこちらを別タグで開いてご参照ください)


舞囃子、仕舞、一調、素謡等は、能の作品世界全体を鑑賞するものではなく、演者個人の技能を見せるものとして、稽古姿である袴に仕舞扇で演じられる註2鑑賞者の多くが能を楽しんでいた時代 註3においては、観客はある種、能動的視点で鑑賞していたとも言える註4が、現在の鑑賞者の殆どは芸を受容する視点しか持ち得ない。これは、装束を付けない能の意味が、番組上のオマケになってしまったという事ではなく、別の意味で鑑賞者を魅了するものになったと言えるのではないだろうか。
 実験映画、コンテンポラリーダンスやオペラ歌手の独演コンサートなど、表現されている内容(シニフィエ)よりも表現性や技芸そのもの(シニフィアン)に寄った鑑賞に慣らされている私達には、理解不能な言葉 註5による物語世界全体の鑑賞よりも、演者の技を切り取る鑑賞の方が却って自然に受け入れられる。
 平成13年の片山九郎右衛文師の『三輪 白式神神楽』舞囃子(第七回能楽座公演)は、『三輪』の物語も知らぬままに謡の言葉が聞き取れずにいても、囃子方も含む舞台上の全璧なまでに美しい存在として私の前に立ち現れてくれた。(小書が片山家伝承のものと知ったのも後の事であった)
 しかし、私が今回テーマにしたいのは部分的上演形態の能ではない。袴能という、装束を付けずに完全な形で上演される能である。本来、夏に行われていた袴能註6が熟練者の芸を鑑賞する方法として定着したのは、物語の重要要素である装束が除外されても尚、作品世界の表現が可能な能楽師個人の技能を鑑賞する為ではなかっただろか。個人の芸を独立させて鑑賞しようとする、現代的鑑賞意識の現れだと考えている。


●能の芸術性と現在の鑑賞


 能の表現は、その鑑賞者の多くを「見る者であり演じる者」として来たからこそ洗練を極めたと言える。対して歌舞伎では、「見る者」だけを対象として来た註7。現在の鑑賞者の多くは能動的意識を持つことができず、わかり易い歌舞伎とわかり難い能という芸能的違いにもなってしまう。その洗練化の方向は、歌舞伎が審美的に記号化するのに対し、能は修辞や暗喩と同様の象徴的抽象化だと思われる。能の抽象は象徴的あり、意味さえも否定する完全な抽象ではないのだ。
 一方、囃子や謡のノリは高揚感を伴う体感効果も高く註8、型は身体感覚を引き起こす装置註9となる。これら象徴的抽象と体感性が、具象的な物語世界と一体となるバランスこそが、能の芸術的本質だと考えられるのではないだろうか。いや、江戸時代より前に成立した日本文化の多くがこの三点のバランス上にあると思われる註10のだが、私達はその芸術的均衡点を鑑賞する能力を無くしてしまった 註11。しかも、鑑賞者=自らも謡い・舞う者として、表現がより洗練化された能楽の場合、謡の詩章を読む等で 註12象徴的抽象表現となった物語性への理解を補う(抽象性と物語性のバランスを危うく保つ)事は可能でも、身体性は獲得できず、型や様式は形骸化した行為として否定的に受け取られるか、審美的価値しか与えられない事になる。
 能楽鑑賞における身体感覚をどう取り戻したら良いのか。それには前述した「装束を付けない能の現代的鑑賞法」が一つのヒントとなり得るのではないか。ゴワついた装束の下に隠されていた人間の動きは、装束を取り払った事で表面に立ち現れてくる。気迫や緊張感、人間の生命力の様なものが肌に直接伝わってくるのだ。それは表象的な表現性に比重が高い鑑賞ではあるが、結果として身体性を伝達する手段でもあり、審美的に片寄った鑑賞でない。
 また、能動的視点を補う為、能楽ワークショップを一度でも受けてみれば、それまで予想し得なかった素晴らしい能楽世界が私達の前に開かれるだろう註13


●近藤乾之助師師の芸と袴能『山姥』


自分は古典文芸への素養が無い事もあり、能を鑑賞する際には内容よりも表現性そのものを重視する(コンテンポラリーアートに近い)方法を鑑賞のきっかけとした。謡曲を稽古し始めて以降も「装束を付けない能」と「能の芸術性」の関係を現代の能楽鑑賞の課題として考え続けていた。
 その為、この袴能への期待は非常に大きいものであったが、近藤乾之助師の芸は初めて鑑賞した時から他の能楽師とは違う註14様に感じた。乾之助師は、体も小さく謡の声も小さい。だが、高密度な力を発散しその圧力は見る者を圧倒させる。静かで強い力が客席の隅々まで支配していき、私達は知らぬ間に舞台に引き込まれる。客席までもが一体となるその集中力はどこから生まれるのだろうか。今回、その秘密の一端を覗いたと思える、ある体験をした。
 壁際の学生席から狂言『蝸牛』までの番組を見ていた時、遠く離れた舞台との距離感を埋める事が出来ず、傍観者であるかの様な嫌な感覚に襲われていた。それが乾之助師が舞台に上がり声を出し始めた途端に、その距離感が無くなってしまったのだ。一種目眩を感じた程註15であり、人間知覚の相対性註16を実感した瞬間であった。乾之助師の舞台では、夢か幻を見るかの様に物理的距離は不問となるのだ。
 そして、その距離感の無い声に発せられた言葉の一つ一つが、謡として、詩歌として、言霊として、観者の心へ直接的に響き広がって行く。
 しかし、乾之助師のこの芸(表現性)に対する体験は、名人芸としては想定される範疇である。一方、この袴能『山姥』は、「装束を付けない能」としての当初の期待を遥かに超越していたと言えるのだ
 私は前述の鑑賞法の通り「前ジテ=人間」と「後ジテ=山姥」の違いなど、乾之助師の芸に興味を持って鑑賞し始めたのだが、これでは能を鑑賞する事にはならないのだと思い直さざるを得なかった。逆に言えば、生まれて初めて能の本質を鑑賞できたと思える体験をしたのである。
 身体性を感じる事が、物語世界から切り取る事でしか成立し得ないのであれば、」身体性の体感も思考によって再構築されたものとなり、能の芸術性を直観した事にはならないのではないか註17。そうは言っても、能の本質を直観する事など余程の人註18でなければ難しい。(その意味では前述した表現性に偏った鑑賞にもそれなりの価値はある)しかし、この袴能は自分を含む素人一般の鑑賞者に、能の本質を直観させる事を可能にしたのだ。
 山姥は山女であり巫女であり母であり、輪廻転生から離れられない人間の妄執そのものである。「恐ろしいだけの鬼」でもなければ「人間に害意を持たない生まれながらの鬼女」註19でもない。山姥の善悪二面性は人間の執着そのもの註20の象徴であり、だからこそ「邪正一如」なのである。妄執から離れられない苦しみと悲しみを、山姥の山巡りをする曲舞を借りて表現している。
 もし、常の演出で観ていたら、私はここまで深い感銘を受けただろうか。
 もちろん乾之助師のことであるから恐ろしい鬼として一方的に表現される事は無いだろうが註21、仏教や民話への知識も無い状態では、非人間性だけが浮き出てしまい、自分とはかけ離れた「物語」として傍観するだけである。
 袴能として、山姥を人間そのままの姿で演じた事で、観者は山姥に人としての感情を重ねあわせる事ができたのだ。

●袴能の今日的意味と可能性


今回の袴能に当たり、乾之助師は『山姥』の解釈を新たに行ったか、あるいは解釈が先に立ち袴能に行き着いたのかは不明である。しかし、その解釈は柳田国男の『山の人生』を引いた解説によって観客に伝えられた。そして、能楽師の身体性は人間山姥の物語世界と自然に結び付く。
 人間が人間を演じる事に面は不要であり、その内面性を描き出す事に状況説明(装束)は、時として蛇足になる可能性もある註23。芸を切り取る為に装束を取り去った場合と異なり、物語の観念世界の直接的表現として、袴姿が必然となり得るのだ。身体性は再構築を必要とせず観者に受け入れられ、物語と一体のものとして直観する事を可能にさせる。能の三要素を知識レベルで理解するのではなく、切り離せない塊として直接心に感じる状態こそが、能の鑑賞なのだ。
 日本人の感性が変わってしまった今註24、能の形式をそのままなぞっていても、本来的意味とは別のものとしてしか存在できない 註25。逆に、解釈も新たに新演出を試みる事で、能の本質を描く事が可能になる事もある。能楽師の年齢や身体そのものが劇中設定と重なる場合、袴能は能の新たな展開を可能にする要素として考えられるのではないだろうか。
 老齢の能楽師の場合は体力低下を補う意味もあるが、技芸の未熟な若年能楽師では、身体の勢いや若さが直接的伝わる事で魅力的な表現となる可能性はある。
 この袴能『山姥』は、現代における能表現の可能性を新たに切り開いたと言えるのではないだろうか。



(以下、 註釈はこちらを参照)


【参考文献】
●『謡曲大観』首巻 佐成謙太郎著 明治書院 '82年(影印版)
●『謡曲大観』第五巻 佐成謙太郎著 明治 書院 '82年(影印版)
●『解注・謡曲全集』第六巻 野上豊一郎編  中央公論社 '81年(再版)
●『岩波講座 能・狂言』Ⅰ能楽の歴史 表章・天野文雄著 岩波書店 '92年(二刷) ●『岩波講座 能・狂言』Ⅲ能の作者と作品  横道萬里雄・西野春雄・羽田昶著 岩波書  店 '92年(二刷)
●『岩波講座 能・狂言』Ⅳ能の構造と技法 横道萬里雄著 岩波書店 '93年(二刷)
●『岩波講座 能・狂言』Ⅵ鑑賞案内 小山 弘志・他著 岩波書店 '93年(二刷)
●『怪異の民俗学5天狗と山姥』小松和彦編 所収 「鷽替え神事と山姥」折口信夫著/  「食わず女房と女の家」五来重著/「霊や間の棄老と養老」山上伊豆母著/「金太郎  の母―山姥をめぐって」河村邦光著/「天狗と山姥」小松和彦 河出書房新社 '00年 ●岩波文庫『遠野物語り・山の人生』柳田国 男著 岩波書店 '93年
●『能・狂言事典』西野春雄・羽田昶著 平凡社発行 '87年
●『能・狂言図典』小林保治・森田拾史郎編  小学館発行 '99年
●『能がわかる100のキーワード』津村禮次郎  著 小学館発行 '01年
●講談社学術文庫『レトリックの記号論』佐  藤信夫著 講談社発行 '01年(七刷)
●『美術解剖学論功』所収 「和洋舞踊への  一考察と撮影の問題」 西田正秋著 彰考  書院発行 昭和23年
●『青年の誕生』 木村直恵著 新曜社 '01年(二刷)

【参考ビデオ】(東京国立能楽堂視聴覚資料)
●『山姥』シテ三川泉/ツレ佐野由於/ワキ  宝生閑/アイ野村万之丞 '90年12月21日  定例公演
●『山姥』シテ片山九郎右衛文/ツレ西村高  夫/ワキ森常好/アイ山本則俊 '87年3月  11日 普及公演(いずれも録画当時の名)